第2節.経済偏重社会のたそがれ


1. 経済一元化体制の限界到達


■現代日本人の「漠たる不安」の在り処

 十年ほど前、最近の学生に自分の理想の住まいを挙げさせると、障子の隙間からすきま風や雪が吹き込むような住まいを挙げる学生が多くなっている、という話をある大学の工学部の教授から聞いたことがある。また、ここ数年は大手企業への就職を敬遠する学生が急速に増加している。マス経済社会が描き出す、人間性から大きく乖離した飽くなき効率追及の流れに背を向けようとする動きであり、このようなヒューマニティへの回帰欲求は今後もますます強まっていくことだろう。

産業規模と雇用キャパシティという物理的な側面から見ても、本来の適正規模に向けて縮小を続ける大手企業からはまだまだ余剰人員の整理は続く。戦後我が国がとってきた、経済大国を目指しての全員参加型の総力戦体制の終焉である。経済には自ずと決められたキャパシティというものがある。産業社会は自らの経済キャパシティを越えて拡大を続けることはできない。企業規模はマーケット規模以上に拡大することはないし、経済効率のために企業が集積している都市も自らの産業規模を越えて拡大を続けることはない。

如何にマス経済偏重の社会とはいえ、日本中の経済的発展と人材の雇用の責任を一身に背負ってマス経済がその運営を続けられるはずがない。高度経済成長期という時代背景に支えられて、たまたまこの過剰な期待に応えられてきた大手企業を中心とする産業社会も、バブルの崩壊とともに肥大した組織を持て余すようになっている。現在、リストラという言葉で新聞紙面を賑わしている雇用調整は、大手企業依存の幻想が消滅した後の、企業が本来の規模に戻ろうとする必然の姿なのである。

 しかし、だからといって離脱する彼らが乗り換える船は何処にあるのか。経済価値を中心として一元化された社会の枠組みの中で、人間の営為の基本を為す家庭生活と、その家庭が集積する"地域"の実態は高度経済成長の過程で希薄化して既に久しい。

 そのような帰るべき拠り所の無い状況の中で、ヒューマニティの無いマス経済社会と、実態の無い地域社会の隙間を彷徨う、膨大な数の時代の迷子が誕生しようとしている。繁栄と衰退、活性と不振、インフレとデフレといった際限のないブレを繰り返す経済活動に疲れ、人生に実感を求めるようになった人々の帰り着く先は今や何処にもない。かといってもはや企業戦士を演じ続けることもできない。

 現代日本人の抱える漠たる不安は、確実に増幅されている。


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