■経済偏重社会三十年説

 いわゆる企業三十年説は、企業という組織が必然的に内在させている時間的限界性を表わしている。世の中に望まれる何らかの財やサービスを提供することを目的として企業は誕生し、そしてその限りにおいて企業の存続は許されている。したがって、その存在意義が企業内部で見失われていないかぎり、その企業は社会との因果関係が理解できているわけであり、常に社会の流れから乖離することのない柔軟な展開を図ることができる。

しかし、その企業活動が何十年と続き、経営者や従事者の代も変わっていくにつれ、当初の組織設立の意義は徐々に忘れ去られていくようになる。そしてそれに変わって自己目的化の論理が頭をもたげだす。今期のノルマ達成ということが組織の全ての目的意識になるのだ。存立意義が見失われ、収益性の追求という近視眼的目標だけに終始しだした組織はもはや未来を見通すことはできず、硬直性を強めながら倒産へと向かうようになる。つまり、会社組織というものが自らの存立の社会的必然性を忘れ去るのに要する時間が三十年なのである。

神のいない国に住む私たちは、ルールを放棄した圧倒的自由社会を形成している。しかし、経済社会の安定を図るためには、従事者に道徳が求められ、そして社会には絶対的な基準が存在しなければならない。暴走する内的必然性を抱える経済を制御するためには、今後、ヒューマニズムの哲学に依拠した企業経営のあり方が真剣に模索されなければならない。企業人自身が自らを律して、経済との付き合い方を考えなければならないのである。そして、社会的正義によって制約を受けるそのような経済社会にこそ、安定的な発展は保障される。

 しかし、現在の社会全般を広く見渡してみると、企業社会に限らず、どの社会領域においても自己目的化の論理が横行し始めていることに気が付く。それは、全てを経済的価値に一元化させてきた戦後五十年の流れの中で、各構成員が自らの価値観の多様性を失ったために複雑系に走る社会との因果関係を把握する力が衰え、主体性を失うことによって逆に組織への依存体質を強めだしたせいなのか。

親は子供が賢くなることを学校に依存し、地域産業は自らの存続を役所に依存し、会社員は自らの人生を会社に依存し、国民は自らの生活の向上を国に期待する。頼られる学校や会社組織はたまったものではない。制度改革や枠組みの改変などでこれに応えようとするが、そのような対症療法的な対策が功を奏するはずがない。

自らの内なる精神的規範に価値を置かず、全てを外界の経済的価値に一元化させてきた現在の経済偏重社会においては、この企業三十年説なるものは企業組織に限らず、実は我々の社会全般に当てはまるのではないか。外部経済に侵食され尽くした家庭組織。限りなく実態を希薄化させている地域社会。近視眼的活動に終始するようになった企業社会。飽くなき効率性追求を続ける経済偏重社会の中で、個人と社会全体との間に存在しているあらゆる中間組織は、単なる非効率な存在としてその存在意義を限りなく希薄化させつつある。

社会構造の多重性のおかげで実際は戦後五十年を越えることができてはいるが、三十年説は企業組織の限界説だけに留まらず、経済に一元化したこの国の社会全体の限界をも言い当てているのではないか。

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