第3節.西暦二千年時代を生きるために


1.変わるものと変わらざるもの



■変化を好まない日本人

日本人は自己主張が下手で、国際化時代を生きるためにはディベート(議論)できる技術を身に付けなければならないと言われている。NHKテレビでディベートを実践的に訓練する番組が組まれていたこともあった。しかし、表現技術を磨くこと以前に重要なことは、社会全体を実態的にイメージして、自分自身の価値観との対比の中からあらゆる事象を評価できる資質を養うことではないか。社会と自らの価値観との関係性に関する理解を欠いた状態のままで真の主張は生まれない。

しかし、多くの日本人は、社会全体を実態的にイメージする力と、自分自身を理解して自律的個人を形成する力のどちらにも欠ける部分がある。まるで中心と先の広がりを欠くドーナツの形のような精神構造で成り立っている。つまり、社会と独立した個である自分とを客観的に対峙させて物事を判断することがいたって不得手なのである。したがって、朱に交わればすぐに赤くなってしまう。会社に入れば、社会的な善悪の判断基準も持たず、企業戦士として会社のために猛然と働いてしまう。

全体に対する判断が働かず、安定した社会の中で横並びになって自分の担当すべき事柄だけを近視眼的に進める。自分が判断を下せる範囲は経験則の中でいたって限られており、それを越える部分については思考が及ばず、会社やお上の問題としてすぐに下駄を預けてしまう。したがって、社会を実態的に感知できない人間が社会の変化を察知できるはずも無く、良きにつけ悪しきにつけ、為す術もなく変化の渦に我が身を晒すことになってしまう。しかしそのことさえも皆が同じ境遇ならば世の流れであり仕方ないこととして、妙に安心して納得してしまう。

一方で、経済社会は絶えざる変化を前提として存続している。社会の変化のダイナミズムがマクロ経済を安定に導くのである。そして、経済社会の高度化は我が国全体をより大きな、そしてより早い変化の渦に巻き込んでいった。

明治以降、そして太平洋戦争以降、日本人は経済力の向上によって豊かになることを信じて、ひたすら経済社会の発展に努めてきた。しかし、日本人はその目的と、そこに向かう活動方法をあまりに純化しすぎたということができよう。哲学としてのヒューマニティに依拠しない資本主義社会体制に身を任せきることによって、自分たちの幸福を獲得しようとする考え方は、資本主義の功罪というものに対してあまりに無自覚であったと言えるだろう。

現在、我が国のマス経済社会は、世界経済との関連性を強めながら変化のスピードを速め、変化に対する予知能力と対応力の低い日本人を一層翻弄する存在になっていこうとしている。変化に弱い日本人が変化を前提とする圧倒的な経済上位社会を作り上げてしまったのである。それも、異なった目的の社会が僅かにでも併存できる余地もないほどに。

これが現代を生きる日本人の多くが抱える、漠とした不安のよって来たるところである。二十一世紀を穏やかで豊かな社会にするために、私たちは現在の社会とは別の、いたって穏やかなもう一つの安定した社会を築かなければならない。全てが相対の中で推移する経済上位社会とは別に、絶対的な基準が存在するオルタナティブの社会が必要なのである。そこで初めて、変化への対応を得意としない日本人は安定して生きていける世界を手にすることができるのだ。



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