■都市のサステナブル性とは

一千二百年の歴史を誇る京都のまちの持続力の源は"不変性"にある。ある信託銀行の職員は「京都のまちは仕事がしにくい。土地の有効活用をこっそりと勧めに行っても、先祖伝来のありがたい土地に何という下賎な話を持ってくるのかとばかりに、けんもほろろに追い返される。話も聞いてもらえない」と愚痴をこぼしていた。京都のまちは、日本の文化首都として歴史と文化を今に伝え、変わらない自信に満ちあふれていた。しかし、その変化を求めない哲学もバブル経済期の後半からはいたって怪しいものになっていった。

「あれほど頑固だった京都の人間が、最近は先方から言い寄ってくるんです」バブル経済期の金の嵐は一千二百年の歴史を誇る京都のまちさえも席捲してしまった。まさに「京都よ、お前もか!」であった。そして、京都人の知恵と京都の文化が集積している伝統的町家が建ち並ぶ美しい町並みは、ペンシルビルやマンションが建ち並ぶ没個性的で不揃いな町並みへと変わっていった。

しかし、元々地域産業中心で大手企業も少なく、西洋流の近代的な経済効率などという概念からは無縁のまち構造だった京都が簡単に近代型経済システムに乗り換えられるはずもなく、かくして京都は、日本文化を標榜する世界の都としての堂々たる「変わらないまち」から、単なる日本の一地方都市としての「変われないまち」へと転落していくことになってしまった。

 最近、「サステナブル・シティを目指して」という言葉をよく耳にする。持続可能な都市を目指そうというものだが、元々、人間の営為が連綿と繰り返されている生活の集積地である都市が、他動的な要因で簡単に栄えたり、衰退したりしてよいはずがない。

都市の開発や再開発の論理は、極論すればアメリカのマネーゲームでしかない。限りなく地価がゼロに近い砂漠のような土地に投資家が集まって開発を行う。そして、都市を作って莫大な開発利益を享受する。そして、こうした投資行為を場所を変えながら繰り返すうちに、初期に開発した都市が徐々に衰退しながらスラム化に向かうようになる。そうして、スラム化が進行して再び地価が限りなくゼロに近づいた都市に、今度は再開発という名の再投資を行なって再び同規模の開発利益を享受する。投資家によるこのような"開発"という名のマネーゲームに、国土の狭い我が国が土地を委ねるわけにはいかない。

現代社会においては都市は経済効率を求めて成立している。しかし、経済は社会の安定を保障しない。様々な経済因子の成長と衰退が輻輳するベクトルの総和の中に都市は漂っているのであり、都市が自らの存続をそうした可変性の強い経済というものに依拠するかぎり、そのサステナブル性が保障されることはない。いつまでも経済の変化の必然に都市は翻弄され続けることになってしまう。


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