■常識を疑え

多くの日本人が盲目的に信頼を寄せ、自分たちが生きていくための規範としている "常識"とはどのようなものなのだろうか。実はそれは、単に過去のある期間に流行していた考え方や、その考え方に基づく営みの集積が、多くの人の目や耳に触れるうちに社会の当然のルールのように錯覚されるようになったものにしか過ぎない。私たちが今日という時間の中で常識と感じているものは、一つ前の昨日という時代に最大公約数的に流通していた社会の一つの流行現象の結果なのである。

そして、私たちの社会の流れというものは、常に絶対的真理に向かって進展しているわけではなく、ただ単に社会の様々な構成要素のベクトルの総和の上に漂い続けて偶然の変化を繰り返しているだけなのである。したがって、偶然の産物にしか過ぎない昨日という時代に流通していた常識に、未来に向けた絶対の真理が包含されているわけではない。

しかし、人間が社会の変化を変化として感知できる時間的範囲はいたって限られている。一定期間以上に亘る緩やかで連続的なコモンセンスの変質を、変化として感知できる感受性が乏しいのである。したがって、常識を不変のように捉えて絶対的な信頼を寄せようとするが、多くの人間が生活の規範としている常識は実は常に変化している。常に大きな蛇行を繰り返す社会の変化の中で、常識は次から次へと変質している。

神が存在していない我が国には、社会の中に絶対的な基準が存在していない。また、個人の規範の精神も乏しい。その為、自己責任という考え方を持ちにくい多くの日本人は、社会生活を安心して営むための行動範囲を、共同の認識となっている昨日の行動範囲とその考え方の中に求めようとする。そして、その結果として今日という局面に圧倒的なコンセンサスが生じるのである。そのような社会の中では、自らの価値観に基づいて常識に異議申し立てをすることができる人間は、周辺にはまるで法律を無視するアウトローのような変わり者としか映らない。

常識は決して普遍的ではないし、また常に正しいわけでもない。紆余曲折する流行の一時の断面にしか過ぎない常識に、普遍的な正義を見出すことはできない。にもかかわらず、精神の自律性が乏しい日本人は、常識に棹差す考え方を持つことができず、常に変化する常識に翻弄され続けることになってしまう。

企業人は企業社会の昨日の事実の集積である今日の常識を規範として行動し、明日の時代の都合によってその行動が正しかったかどうかを判断される。生活者は、企業社会が連続的に仕掛ける短サイクルの流行を、常に常識として受け止めて購買活動を起こす。しかし、それらの行動を起こす彼らに自己責任という発想はない。自分たちの行動が間違っていたとなれば、それは会社が、そして社会が悪いと考える。いずれにしてもその結果は自分自身にしか降りかかってこないというのに。


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