■"地域"という生活のステージの実態の希薄化

 家庭を侵食した経済上位の社会風潮は夫と妻を企業社会に連れ去り、その代わりに、これまた企業社会のメリットに直結する家事労働の外部経済化をもたらした。かくして人間の"生活"は、経済上位の一元的価値体系の確立に伴う、経済システムの維持・拡大のためのサポーターと化し、金とモノを巡る生活の自転車操業化現象が始まった。

 こうした環境の変化によって、まず生活が地域から消滅していった。地域からの生活実態の希薄化は地域の主体性の喪失を意味する。そして、地域産業は地域の中で協働すべきパートナーを失い、巨大化する全国画一の経済ネットワーク・システムによって、地域を巡る産業コミュニティーの輪をズタズタに分断され、孤立化の中で衰退に追い込まれていった。地域を単位とする産業の衰退は地域の自立性の衰退を意味している。

また、こうした流れに更に拍車をかけたものの一つに都市計画による用途地域の指定がある。住んで・働いて・憩う。本来、職住一体の自己完結構造にあった地域に対して、用途純化という発想から生活を構成する各機能の分離が図られたのである。住居地域での住機能だけの過度の特化。経済効率のために存立する都市の効率性の更なる向上。この制度によって、地域を単位として完結していた生活は全方位性を失い、生活を完結させるため、互いの地域への日々の地域間移動という新たな負荷を負わされることになってしまった。

自宅から職場への片道の通勤時間に一時間半費やしているとすれば、一日に要する時間は三時間で、それを一年間続けたとすると総通勤時間は七百二十時間。一年間働くために、通勤時間に何とまる一ヶ月分の時間を費やしていることになる。

ドイツの多くの地域では、勤め人の父親も学校へ行った子供も昼食時にはいったん家に戻って家族一緒に昼食をとる。欧州の多くの国では、退社後いったん自宅に帰ってから観劇や食事のために再び街に出る。こういった生活パターンは職と住が近接していることによって可能なのであり、用途純化の発想によって生活機能を分離された日本の都市部では望むべくもない生活パターンになってしまっている。

かくして地域は、経済効率を過度に重視する「規模の経済論理」によって、その存在の証である生活を失い、産業を引き離され、主体性と自立の可能性の両方を奪い取られていった。生活の再生産拠点であった地域は、もはや東京中心の経済ネット・ワークチャネルの主要拠点である大都市部に従属する単なるベッドルーム的存在にしか過ぎず、生活の主体性と経済の自立性を失なった地域の昼間は老人だけの街と化していった。


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