福原さんが、塚口コーポラティブハウスのプロジェクトに参加されたきっかけは、今回取材したほかの方と比べると特殊な事情がある。
福原さんご夫婦は、結婚後の三十年ほど前に尼崎市武庫之荘にガレージのある一戸建てを買った。その後お子さんも独立されたので、悠々自適の生活を送ろうかと、武庫之荘駅にもっと近い中古マンションを購入した。
七つの出窓のある二十五畳のリビング、八畳大のキッチンなど、以前の居住者が外国人であったため、外国人向けの住宅仕様として全ての間取りがゆったりつくられた、たいへん住み心地のよいマンションだったという。ご主人の仕事の関係で海外で暮らした経験がおありの福原さんご夫婦には最適のマンションだったのだ。お二人の終の棲家という意識で、まとまったお金をかけてリフォームを施した。
それが暮らし始めて一年一ヶ月後の1995年一月一七日、阪神大震災によってお二人の目論みはもろくも崩れ去ることとなった。
幸い、福原さんご夫婦はけがもなく大丈夫だったそうだが、起き出してみると七階建てのマンションの繋がった棟のピロティが座屈し倒壊していたのだ。幸い死者はなかったのだが、助けを求める人の叫び声が聞こえるなどその時はたいへんな混乱に陥ったという。
結局、七二戸のマンション全体は取り壊され、再建へ向けて建替え計画が進められた。
福原さんご夫婦にとっては、まさに青天の霹靂だ。終の棲家と決めたマンションが、わずか一年にして消えてしまったのだから。
建替え計画の協議が始まったが、被災マンションの建替えはなかなかスムーズに行くことはできない。話し合いの場に出ていくのも、精神的ショックからあまり気の進むことではなかった。
そんなところに、塚口コーポラティブハウスのプロジェクトのチラシが目に留まり、説明会を聞きに行った。洋服も住まいも個性的なのがいい、好きなファッションを楽しむ様に、クチュール感覚で作った部屋には、誰にも真似できないような華がある。マンションの外観からは想像もつかない別世界だ。
福原さんは、「これだ」と思い、次の日には申し込みに出かけた。
これまでの、土地や建物を所有するという考え方について、震災によるマンション倒壊から、より今の生活を楽しんだ方がよいと、意識の変化があったからだという。構造の面からも、100年の耐久性を持った頑丈な建物として計画することも、心のよりどころとなった。
約一年半にわたる事業期間についても、建設組合の会合で、ほかの十世帯の入居者の方と何度も顔を合わせて顔見知りとなったことから、生活を始めるうえでの安心感があった。年代も三〇歳から七十歳までさまざまな年代の方が住んでいる。
塚口コーポラティブハウスは、それまで住んでいてなじみ深い武庫之荘から一駅、塚口駅から歩いて四分とたいへん近いところにある。塚口駅には大きなスーパーがあり、日常の暮らしは歩いて買い物に行けるので、不自由しないそうだ。それから、これは偶然だが、建物の一階に整形外科が入居することになった。これから年を取ると足腰の不自由も考えられ、何かあればエレベーターで下に下りていくだけで用が足りるのも大きな安心につながっている。
関西では、スケルトン定借によるコーポラティブハウスの第一号になったこのプロジェクトだが、福原さんは「子どもたちは独立して長男はドイツに、長女は横浜にいますから、ここについては純粋に私たちが終の棲家として考えれば、子供たちに残すとかそういうことはとくに考えていません」という。
間取りについては、「シカゴで暮らしていたときに買い求めたソファーや食器棚など、日本の住宅にはちょっと大きすぎて置きづらかったのですが、ここでは、 自由設計を活かして、ゆったりとしたリビングを設計してもらい、窮屈でないようにしてもらいました。このソファーのカバーは古くなったので、自分で布を買ってきて張り替えて長く使っているんですよ。」と、思い出の家具への愛着を最優先した。
また、床については、お風呂などの水回りを含めて、車椅子の生活になっても安心のバリアフリーに配慮した設計になっている。
「この部屋は、6回の最上階に一戸だけ載っているのですが、まるで船の甲板の上みたいなんですよ。ルーフテラスに囲まれた中に家が建っているのです。」
広いルーフテラスに出ると、風がさわやかに吹き抜け、辺り一面への眺望は抜群だ。北には六甲山系の山並みが、また伊丹空港へ離発着する飛行機が見える。
「引っ越して一月あまり過ぎてようやく落ち着いてきたので、こんど、うちのルーフテラスにみなさんをお呼びして、パーティーをやろうと考えているんですよ。」と、思いがけない天災による困難を乗り越えて、安心できる住まいを得られて満足なようだ。
最上階の福原邸。広いルーフバルコニーからは、四方の景色を楽しむことができる。