あとがき


先日、所用で久しぶりに名古屋に行った折、小学校時代からの友人と連絡を取って、昔の我が家があった場所や小学校、そして通学路や一緒に遊んだ場所を探してまわった。四十年を経ても昔のままの懐かしい風景を留めている場所もあり、また、すっかり変わってしまっている場所もあった。

その当時の公務員の給料は安く、我が家では給料日には手持ちの現金が底をつき、給料をもらった父が努めの帰りに買ってくるおかずを、ご飯だけ用意して家族全員で待つといったことも度々あったように思い出される。また、学校に行けば、弁当を持たしてもらえず、昼食の時間にお腹を空かせながら校庭で遊ぶ、更に貧しい家の子供もクラスに数人はいた。当時は貧しさなんて感じたこともなかったが、考えてみれば、ほんの少し前まで日本は貧しかったんだとしみじみと思い出される。

電化製品と名がつくものは裸電球とラジオしかなかった我が家にテレビがやってきた日のことは、今でも鮮烈に記憶に残っている。そして昭和三十年代も終わり頃になると、さほど豊かではなかった我が家にも徐々にモノが充足していくようになり、そして我が国は高度経済成長時代を迎えた。

その高度経済成長の流れを思い返してみると、成長を続けた時代の半ばまでは確かに社会は実態を伴なって拡大していたように思う。しかしその後は、"拡大"というよりは、"拡散"という言葉を使う方が適切な状況になっていったのではないだろうか。モノに囲まれる中で逆に広がるようになった生活不全感は、一体何なのだろう。どうしてあらゆるものが自分から遠のいていくようになるのだろう。

警察組織に所属していた父は、事件が発生すると捜査本部に詰めるため、休日が連続してなくなる。私が高校生の頃、疲れた様子で毎晩遅く帰宅する父を見て、仕事の意味について何気なく尋ねたことがあった。その時父は、「仕事というものを通じて社会に貢献できているという実感が自分を支えている。仕事にその実感が持てなくなった時は、自分が社会から引退する時だと考えている」と即座に答えた。私は答えた内容よりも、そうした内容を父が間髪を入れずに喋ったことの方に内心驚いたことを覚えている。「この人はいつもこういうことを考えながら生きているのだ」私はその時思った。

それから三十年余り、年々大きくなる社会全体の変容ぶりを眺めていると、つくづく遠くまで来たものだと思わざるをえない。私がコンサルタントとして独立した昭和五十年代の終わりからの二十年足らずを振り返っただけでも、社会の変容は激しい。果してこの変容を全て"進歩"と呼ぶのは正しいことなのだろうか。社会の構成要素の新たな組合わせによって、あるべき方向に向けてシフトを図ろうとする私の仕事上の"企て"は、社会全体の自己目的化や硬直化の流れの中で年々難易度が高まっている。この国の"気概"というものは一体何処に行ってしまったのだろう。

西暦二千年時代を迎えた今日、限りないグローバル化が進行する経済偏重社会の中にあって尚、人間を中心に構成されるもう一つの地域社会の建設を進めるためには、様々な社会領域に生きる人たちの精神の自立と、一人でも多くの協働すべき同志との出会いが必要になる。各界のフロント・ランナーたちのそうした善意の企ての開発と、信頼しあえるパートナー発掘のために本書が少しでも役に立てるなら幸いである。


ぼやぼやしているうちに一日は過ぎ行き、うとうとしているうちにまた夢を思い出す。歩んだ道にはかげろうがたって、忘れかけた思い出をサイケデリックに照らしている。子供の頃、あの角を曲がるとお風呂屋さんが見えた。同じ角を曲がると、今は一体何が見えるのだろう。


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