■穏やかな地平の上で
マス経済の振興に一元化された経済偏重社会の終焉は、別段、資本主義社会そのものの終焉を意味しているわけではない。資本主義システムは、今後も変質を繰り返しながら、基礎的なインフラとして社会の中に息づいていくことだろう。全てが相対の中で推移する経済に一元化された社会とは別に、私たちは多元的で自己完結的な、オルタナティブの社会を地域に求めるべき時を迎えている。
都市の臨海部に目をやると、そこには埋め立てによって生まれた工業地帯が生活地帯と海との間に立ちはだかっている。以前、そこは景勝の地として、また、海水浴や沿岸漁業の場所として、地域生活の大きな付加価値であったことだろう。生活者から海を奪ったこのような工業振興の流れも、産業構造の転換とともに、今では二十世紀の開発の時代の忘れ物として廃虚のような姿をさらしている。
イタリア人は生活という"今"を楽しむ。生活を評価し、今という実を楽しむ人生は淡々とした平面的なものになる。日本人は未来に賭けて、生活という"今"を蔑ろにしている。しかし、明日は永遠に今日になることはない。そして、虚に賭けつづけるそのような営為の繰り返しは、社会の変化のエネルギーを増幅させながら生活からの乖離幅の拡大を促し、最終的には私たちから帰るべき精神の拠り所を奪い取っていく。
封建制度の時代があり、帝国主義に覆われた時代もあり、そして、産業革命や科学技術の進歩によっても大きな影響を受けながら、様々な紆余曲折の果てに私たちは現在に辿り着いている。私たちが目にしている現在の社会は、このような幾度かの思想開発や発明、科学技術の振興といった、たまたまの偶然の連続の果てに辿り着いている世界なのである。それは決して、神の摂理という絶対的必然の下に形成されているわけではない。そして、その社会も二十世紀の極度の物質文明の伸張の果てに、大きく行き詰まろうとしている。
現在のダッチロール型変化社会が、エネルギーの法則に基づいて、振幅の極限状態の果てにバーストを起こして絶対的安静状態に転じる日はさほど遠くはないのではないか。人間から規範の精神が薄らぐに連れ、社会の揺れ幅は加速度を増しながら極大化しようとしている。訪れるべき絶対的安静状態は、荒廃によってもたらされることになるのか。それともオルタナティブの社会の建設と、そこへの移行によってもたらされるのか。問題はもはや深刻化する社会の不安定現象ではなく、その後に訪れる絶対的安静の中身に移ろうとしている。
生活をもう一度評価することによって、家庭の再生と地域コミュニティの実態化を図る。地域における生活密度の高まりは地域生活文化の醸成を促すものであり、そして、生活文化は生活に潤いをもたらし、地域のアイデンティティの強化に繋がっていく。「人間」への回帰によって図る「生活」の再生だけが、社会を内側から自然治癒させることができる。絶対的安静は社会の崩壊に因ってではなく、生活の再生によって誘導されなければならない。
各地域で生活者によって繰り広げられる生活文化革命(地域ルネサンス)は、最終的に新たな日本の生活スタンダードの形成に到達することになるだろう。そして、それは産業目標を喪失して混迷する我が国の産業社会の新たな活路ともなる。
生活と、文化と、経済のバランスの良い組み合わせによって展開される一連の地域社会実態化に向けてのこのような動きは、全て地域という平面的な空間の中で繰り広げられ、決してそこから乖離することはない。そして、その上で営まれる生活と地域の実態化に向けての様々な営為は、私たちに多様な価値観が担保される新たな多元価値社会の出現を約束してくれる。
そして最終的に、マス経済社会と地域社会の棲み分けによる多元価値社会の成立によって、西暦一千年時代の最後に出会った二十世紀の嵐のような開発の時代とは異なる、二十一世紀の穏やかな地平に私たちは出会うことができるようになるのである。
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