2.求められる個人の総合力


■プロフェッショナルを目指したがる日本人

日本人は各論に強く、総合力に弱いという言い方がされることがある。額に汗して働くことを信条とする農耕民族で、社会全般を認識することが不得手な日本人の体質は、定められた領域を対象とするプロフェッショナルを目指しやすい。拠って立つ基盤を明らかにすることが自らのアイデンティティの証なのである。

現代社会を生きる上での無力感は、一つには、社会の拡大と深化によって発生する、社会と人間との乖離幅の増大によって生まれている。社会を構成する様々な領域が複雑に枝葉を広げ、それぞれが自己目的的に深化を進めている。そして、その深化の推進役がそれぞれのプロフェッショナルなのである。こうした流れが、社会の全容をいたって分かりにくいものにし、制御不能の状態を作り上げている。

 本章の第一節で述べたように、社会は「哲学・科学・技術・経済」というヒエラルキーで構成されていると考えられる。したがって、プロフェッショナルである技術者には、技術に隷属するのではなく、科学する心とともに、社会規範の中から自らの進むべき道を明らかにできる精神の自律性が備わっていなければならない。さもなければ、加速度的に先鋭化する各領域の技術論は、お互いの関係性を見失う中で孤立し、自己目的化の極みの中でタコ壺の中の技術論と化してしまう。
複雑系に走る社会に求められる人材とは理論や技術を統合化できる人間であり、ゼネラリストとしての総合力が求められなければならない。本書では経済というものが社会や個人に与える問題について盛んに論じているが、私は現在の経済システムそのものを否定しているわけではない。それを運用する日本人のCivicの精神や、哲学としてのヒューマニズムの無さを問題にしているのである。

経済に依拠する社会を安定的に推移させるためには、運用する人間に精神の規範力が求められる。そういった全体のありように思いを馳せながら、社会を一定の方向に誘導することができるゼネラリストの存在が求められているのである。さもなければ、経済は簡単に人間の制御を越えて暴走することになってしまう。

しかし、現状においてはこの領域を得意とする日本人は決して多くない。社会の全体像を自らの規範の中でイメージして総合性を発揮できる人間がいたって少数なのである。社会と自分自身を客観的に対峙させながら、社会の進むべき方向性を全体のバランスの中から編み出していくことができる、各論を統合できるゼネラリストの存在が求められなければならない。


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