■改革するは我にあり

 一頃、商社やゼネコン、銀行などの従来の企業社会のエリート集団が相次いで引き起こす事件や社会的問題が新聞を賑わしていたが、現在では大蔵省、通産省、厚生省、農水省、果ては警察と、国家官僚が引き起こす不祥事が堰を切ったように次々と噴出している。マスコミはそれらを制度疲労と表現しているが、この国の正義や倫理観は一体何処へ行ってしまったのだろう。

戦後五十年余の間に複雑に拡がった社会の各領域は、殆ど無目的に深化のための深化を続けている。そして、それぞれの領域に跨がる社会常識は消失していき、自己目的化の論理の中で各々がバラバラに暴走を始めている。暴走する組織の必然に制約を与える社会正義が消滅してしまったのである。

社会全体の大幅な構造変革期の中で、国の省庁再編、様々な規制の撤廃、地方分権法の施行、更には企業社会における企業グループの再編と、様々な領域における社会の枠組みの改変が目まぐるしく進行し始めている。しかし、そのような枠組みや制度の改革はすべからく、社会が掲げてきた従来からの目標に対してのアプローチ手法の見直しを目的として推進されているのであって、ドラスティックな社会の価値観の転換を目指しているわけではない。

 経済に一元化された社会体制から人間を中心に据える社会への変革の成功を、現社会の制度や枠組みの改変に期待するのは間違っている。人間を中心に据える多元価値社会は現体制による、あてがい扶持の改変によって生まれるのではない。経済的価値を上位に据えたままでの変革では、そのような社会が私たちの前に姿を現すことは決してない。

 一般的に言って、社会体制の変革は何らかの具体的な旧体制を打破することによって実現される。戦うべき具体的な相手が外部に存在しているのである。しかし、人間を中心に据える生活上位の社会は、外敵の打破によって獲得されるような類いのものではない。その実現のためには、まず社会の各構成員に人間としての精神の規範力と、生活を評価し、それを生きるうえでの柱としようという価値観の確立が図られなければならない。人間を中心に据える生活上位の社会は、社会の各構成員自らの内に向けた改革によってしかもたらされることはない。

 しかし、常識に棹さす考え方をなかなか持つことができない日本人が生活を上位に据える考え方に価値観をスライドさせるためには、自らの内なる部分に対する革命的な取り組みが必要になる。様々な社会領域の中で働き生きる人たちが自らの社会生活のありようを自らの規範の精神に基づいて組み立て、それと並行して、生活者としての自覚を自らの心の中に取り戻すことによって、人間に価値を置く多元社会は徐々にその姿を現すようになる。その具体化方策は私たち一人ひとりの心の改革にしか求めるところはない。



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