■個人としての精神の自立の必要性

 戦後半世紀を経て、経済社会は既に個人の実感によって感知できる範囲を大きく越えて拡大してしまった。そして、サラリーマンは、大きく広がった企業活動と個人の実感の隙間の中で戸惑い、無力感に嘖まれるようになっている。

 現在、多くの企業が、バブル期に抱えた不良資産を先を争って処分しようとしている。担当者は、物件購入に関する会社の非常識な判断をバカにしながらも、結局は個人として何の知恵を働かせることもなく、会社に命じられるままに投げ売りのように有利子負債の処分を進めている。結局、会社と個人の関係は、バブル期も、その後遺症に苦しむ今も何一つ変わってはいない。盲目的に会社方針に追従する大多数のサラリーマンのコンセンサスによって、どんな不条理も常識として正当化する不可思議な社会。会社の方針が間違っていようがいまいが、自らの何の信念も織り込むことなく、常になすがままに会社方針に従うサラリーマンの姿がそこにある。

しかし、会社とは何処までいっても社員の集積体にしか過ぎない。したがって、社員個々人の活動の実態から全く乖離したところから活動方針が呈示されているわけではない。会社という抽象的存在に予め具体的な意志があるわけではなく、社員各々の活動の集積によって生まれる新たな都合が、結果として会社の都合のように映っているに過ぎないのだ。バブル以前の自らの業務に対する取り組み姿勢を思い出してみれば分かる。貴方たちはバブルの被害者ではなく、間違いなくバブルの推進者だった。その推進者が、どうして自分たちが導いた必然の結果を会社という抽象的存在のせいにできるのか。

 私は大手企業の社員とも一緒に仕事をする機会がしばしばあるが、組織が大きくなるほど自らの規範によってものごとを判断できる人間が少なくなっていくというのが私の実感だ。中小企業経営者がものごとに接するときの、自らの人生観にかけて取り組もうとする真摯な姿勢を大企業のマネージャーに見ることは殆どない。社会全体がドラステイックな構造変革期にあるにも関わらず、どんなに新しい提案がなされても、彼らは相変わらず活字化されたものの中にその判断基準を求めようとする。不連続な時間軸に位置するようになった未来は、過去のストックである活字の中には存在しないというのに。

 また、彼らは外部からの提案に関しても、内容如何ではなく、誰が提案しているかによって判断しようとする傾向が強い。それなりの社会的な地位を備えた人間や、自社に似た大手企業からならば聞く耳を持つが、そうでなければ内容の如何を問わず反応しようとしない。自らの主体性ではなく、過去からの習慣と安直なリスク回避の発想を全ての判断に優先させているのだ。

 今や、経営者も、サラリーマンも勇気をもって横並びの常識から決別すべき時を迎えている。企業という特殊な村社会の中で同質の人間とばかり群れていないで、自らの力で外界との共通言語を開発して広い世の中に足を一歩踏みださなければならない。そこには自由でヒューマンな世界が広がっている。会社人間となって以来忘れていたその景色は必ず業務への取り組みに新たな視点をもたらしてくれる。

 今、企業人に求められている資質とは、漠とした未来を必然性のあるものとして予測する能力であり、そのためには、社会と自分自身とを対峙させて、両者の位置関係を自らの中に描き出せる精神の自立性が重要になる。今後のモデル無き社会の中において、なおかつ企業の健全な発展を期するためには、企業組織の中に精神を埋没させて業務の推進を図るのではなく、精神を自立させて、企てを業として組織を誘導できる個人の主体性を確立しなければならない。まさに「我に目覚めるか企業人」なのである。



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