第1節.戦後の我が国の社会の変化


1.日本が歩んだ経済一元化社会の道



■経済社会の嘘とは何か


 私が大学を卒業して企業社会の門をくぐった時に最初に奇異に感じたことは、"拡大均衡"を至極当然のこととして捉えている企業社会の常識だった。静止も縮小均衡もありえない。それは企業の消滅しか意味していない。

しかし、我が国には百六十七万という数の営利法人が存在している。それだけの数の会社が皆一様に拡大均衡を唱えて毎年生産・供給量を増大させているとすれば、その総和は一体どの位の規模になるのか。毎年、幾何級数的に増大するノルマの総和を受け入れ続けるマーケットは何処に存在するのか。それともマーケットは無限だとでも言うのか。どうして会社というところではこのような建前にしか過ぎない単純な嘘がまかり通っているのかというのが、企業人に成りたての私の最初の疑問だった。

しかし、その疑問は社会人になって半年も経たないうちに自然に解明された。実は、資本主義経済システムは、そのシステムへの参加者全員の安定的存続や、発展を保障しようとしているわけではない。マクロ的に見て国家経済がどんなに成長段階に在るとしても、個々の産業や企業の単位で見ていけば、いつの世にも衰退産業や倒産企業は在る。その観点から言えば、我が国の産業社会のこの五十年は、高度経済成長期という突出した経済現象に支えられたこともあって、マクロ拡大の部分だけが輝かしく報じ続けられ、その陰に潜むミクロ淘汰の部分にはほとんど注意が払われることが無かった時代であったということができる。

資本主義システムが目指すものは自らの拡大再生産であって、構成員個々の繁栄ではない。したがって、人間中心の観点からすれば、資本主義システムは全幅の信頼を置くに足るような性格のものではないが、資本主義システムから見れば、企業やその従業員は自らの存続と拡大のための欠くべからざる奉仕者であるということができる。しかし、企業社会の入り口に立ったばかりの私は、資本主義システムは消費者である国民の幸福のために、そしてその構成員である企業や従業員を守るために存在していると考えていた。

全国各地に点在する、生産主体の集積体として何百年も続いている伝統産業を例にとってみても、その構成企業に目を移すと、産地全体と同等の歴史を誇っているような老舗企業は皆無に近い。長い歴史を誇る伝統産業であっても、その構成企業の歴史の多くは意外に新しい。我が国の産業社会も、繊維から鉄、そして自動車と、栄えては衰退する幾つもの基幹産業を乗り換えながら、産業社会総体としては拡大を続けてきた。

このように、資本主義経済システムは、自らのシステム自体の拡大と連続性を守るところに目的があるのであって、決して構成員である企業や個人を守ることを目的として存在しているわけではない。企業や個人の生存欲求とは無関係のところに、更に言えば、はるかに超越したところに経済成長という概念は存在している。

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