■社会構造のヒエラルキーの変化


私が社会人になって間もない頃、社会は「哲学・科学・技術・経済」という順で構成されているという話を知人から聞き、深い感銘を受けたことがある。人間を中心とする世の中のありようや、そこで生きる精神的規範、必然を明らかにするものが「哲学」であり、それに現実の社会に対応させるために一定の法則性や方向性を付与するものが「科学」。そして、それに具体的な形を与えるものが「技術」。したがって、技術者は常に科学する心を持たないと恒常的な技術の振興は図れない。そして、形を与えられたものは結果として「経済性」を帯びるという考え方だった。

 この考え方に触れた七十年代の半ば、当時の新聞には盛んに「技術立国」という言葉が登場していた。それは、我が国は産業技術の優位性によって世界に伍していこうというもので、いわばモノづくりのための健全な技術振興の考え方だった。しかし、それから十年と経たない間に、新聞の見出しは全て「経済大国」というキャッチ・フレーズに塗り替えられていた。

 拝金主義が横行するようになり、全ての事象の価値が貨幣の多寡で判断される社会。マスコミに登場するどんな目新しい話も、それで儲かるか否かというくだりがなければオチがつかない。それは、当時のある新聞が年初の話題として取り上げていた、「売れるものを作れ!」という某大手家電メーカー経営者の年初の社内訓辞に表れているように、「技術」と「経済」の立場を逆転させるものであり、「技術」を下請として「経済」を上位に据える下克上的な社会への変質を意味していた。

先に述べた、「哲学・科学・技術・経済」という社会構造の因果関係においては、最下位に位置する「経済」は結果論でしかない。まるで逃げ水を追うような、「経済」を上位に据えるようになった産業社会に、もはや次に開くべき新たな未来など存在するはずはない。例えば、商業や金融の業界は、経済上位の社会風潮の中で産業界のリーディング・カンパニー的な地位に躍進したが、この種の業界が社会の中で次の新たな社会像を創造していくことは基本的にありえない。彼らは確立された社会システムの中で、評価の定まった事柄だけをひたすら繰り返して消費しているに過ぎない。

 人間の存在を中心に据え、そのありようや真理に思いを馳せ、そこから普遍的なるものを抽出して社会を理解し、そして人間社会の更なる充実への寄与を図る。技術はそのことを具体化し、経済は人間を巡るこの一連の営みの最後に必然的に付いて回る。

 この輪廻の経済学とも呼べる、人間を中心として巡る知恵と財と情報の循環構造こそが健全な産業社会の発展を約束するものであり、人間を見続けることによって企業活動は常に新たな視点を手にすることができる。そして、そのことによって産業界の円滑で恒久的な更新活動は現実のものとなる。その意味ではやはり"消費者は王様"であって、突出した技術信仰や経済至上主義は刹那的な繁栄以外にどんな有益な未来も私たちに約束してくれはしない。

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