2.再び生活者たちよ


■サイレント・マジョリティたちへ

 バブル経済の崩壊と伴に、死に体にならんとしていた我が国の後期資本主義社会は、アメリカが仕掛ける、世界を結ぶ市場経済化の流れの中に再び活路を見いだそうとしている。私たちに限りない消費を強い続けてきたマス経済社会は、次は更に熾烈な市場経済の世界に私たちを誘おうとしている。皆が企業戦士で、拝金主義者で、そして物欲の強い消費者であることを求める現在の経済偏重社会は、市場経済化の流れの中で一層その自己目的化の体質を強めだしている。

 また、経済に一元化された戦後半世紀に亘るこのような社会体制は、官民を問わずあらゆる組織を、硬直化と、構成員の精神の自律性の希薄化が相互に影響し合う悪循環の中に陥らせていった。自己目的化したタコ壺の中の論理に基づいて迷走する社会正義を欠いた組織集団は、今や次から次へと社会的問題や事件を引き起こすようになっている。かつて我が国を牽引してきたエリート企業や国家官僚が起こす社会問題は、連日のように新聞紙面を賑わしている。

 マスコミは、このような日本全体を覆う停滞感や閉塞感を払拭する改革を新たな社会システムの開発や制度の創設に求めている。そして、その英知や指導力を存在感を失った政治に求めようとする。しかし、そのようなあてがいぶちの改革で、自立した個人が活き活きと生きていける自由で多様な社会は実現するのだろうか。実は、求める先は私たちの心の中にしかないのではないか。

前節で述べたように、強いお金の呪縛から脱して自由で多様な多元価値社会の成立に向かう企ては、各社会領域のごく僅かのフロント・ランナーたちの協働によって一定の成果はもたらすことができる。自己の信念に基づいて生きる彼らは既に社会性に目覚めており、誰に要請を受けずとも積極的にこの活動に携わるようになるだろう。問題は残りのサイレント・マジョリティたちのその後の動きにある。

この膨大なボリュームを占める一般の生活者たちがフロント・ランナーの動きに呼応しなければ、多元価値社会の成立は最終的に幻想に終わってしまう。「地域社会実態化に向けてのアクション・プログラム」で述べた、第一走者である地方自治体の進める地域実態化誘導計画も、民意という後ろ盾が付いてこなければ頓挫するしかない。その結果、グローバル経済に対向できる思想を地域に求めるフロント・ランナーたちの企ては、見果てぬ夢として潰えることになってしまう。

私たちは経済こそが生活を豊かにしてくれるという長年に亘る幻想から目覚めるべき時を迎えている。自分たちの地域生活の充実を国や地方自治体に依存しようとする発想は、問題を会社のせいにして自らを被害者のように感じている会社人間と何ら変るところはない。全てを損か得かで判断する経済偏重社会の価値観から脱却して、自らの中のあるべき"普通の生活"のイメージを信じて精神の規範力を強め、自立的な個人を目指すのである。穏やかで絶対的基準が存在する地域に帰り、文化への拘りを心に抱きながら、そこでフロント・ランナーたちの活躍を待とう。

生活を楽しみたい素直な心を大切に、全てが相対の中で推移する経済偏重社会から自らの精神を独立させて、フロント・ランナーに続いて生活を軸に据えた地域社会の成立に努めるのだ。自由で多様な多元価値社会の成立の最終的な可能性は、精神の自立を目指すサイレント・マジョリティたちの自己改革の覚悟に掛かっている。


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