3.社会体制のあり方の再検討
■社会制度について
西欧社会が血を流して勝ち取った民主主義を、日本は何ら労せずして手に入れたために未だに完全に自分のものにすることができていない、という言い方がよくされる。日本における民主主義は未成熟なものであるらしい。しかし、本当にそういうことなのだろうか。西ヨーロッパの片隅というローカルな固有の文化的風土の中で生まれた価値観に基づく思想が、異なった文化的風土を持つアジアの東の果ての日本にスムースに伝播するとは考えにくい。更に言えば、それは東洋の片隅の島国に住む私たちが全幅の信頼を置くに足るシステムなのだろうか。
民主主義のシステムを代表するものとして選挙という制度がある。棄権を防止するために、選挙の度に政府広報などを通じて、国民の権利であり、義務として投票に行くようにという呼びかけが行われる。しかし、それでも毎回の投票率は決して高くはならない。テレビでは、議席数を増やした政党は国民の信を得られたと喜び、議席数を減らした政党は国民の理解が得られなかったと唇を噛んでうつむく。そして、識者は投票率の低さを日本人の民度の低さとして解説している。本当にそういうことなのだろうか。
多数決によって正否を判断しようというのは、コモンセンスの分散によって合意形成を図りにくい多民族国家においての必然であろう。我が国においては、主義、主張を数字に変換して国民の意思を確認するという無機質なシステムは、国民の一般的な信条に合致していないように思われる。成熟型社会と呼ばれるこの価値観が多様化する時代に、与野党間の単純な二項対立の図式の中にあらゆる意見を集約しようとしても、そこに本質的な合意は得られない。所詮は百対九十九では百が当選となり、九十九は落選になる程度のことで一件落着してしまう。
しかし、九十九にもそれだけの評価はあったのであり、それなりの遇され方があって然るべきではないか。そういう数の論理を絶対とする単純な図式を、どうしても価値あるものとして受け止めることができない。そして、他の候補者を口汚く罵り、数の奪い合いに血道を上げる選挙という制度に距離感を感じざるを得ないのだ。
資本主義に関しても同様のことが言える。例えば、商法では会社は株主のためにあることになっている。会社は株主の利益のために働くのである。欧米では、株主の利益を最優先にして、業績の不振が従業員の解雇に直結するケースは珍しいことではない。しかし、業績不振イコール従業員解雇という図式は、日本の経営者はあまり考えないし、国民の一般的な信条にも馴染んでいない。また、経営者の判断や企業活動をチェックするためにある株主総会も、有名無実化させてしまう別の機能がすぐに働いてしまい、建前だけのシステムと化しているケースが多い。
定期的に新聞紙面を賑わす社会問題の一つに業界の談合問題がある。役所への入札に際して談合が行われたとして糾弾されているが、談合とは本当にあらゆる業界にわたって反社会的なシステムなのだろうか。技術力と生産力が一定の段階まで到達した現在の工業社会の中で、誰もが簡単に確認できる技術差や価格差は本当に存在しているのだろうか。談合という半ば必然的に存在するシステムを反社会的なシステムとして闇の世界に放置するのではなく、新たな民主的な選択システムとして、公平性の付与策と、それによる発注コストの一層の低減手法を検討するほうが受発注者双方の効率になるのではないだろうか。
また、契約という行為にも不思議なところがある。企業間では仕事に取り掛る前に契約書が取り交わされる。しかし、その後どちらかの会社に不都合が生じたとき、先方を尋ねて事情を説明すれば、「今回はしょうがなかったですね。」とばかりにいとも簡単にその契約行為を無かったことにしてしまう。本来、契約という行為は、お互いの精神の自立が前提になければ成立しえない。我が国は契約という行為を厳粛に受け止めることができない、精神の自立性の低い人間たちが織りなす情状酌量の社会なのである。
かつてイタリアを訪れたとき、この国には残業というものがないと聞かされていた。この話に懐疑的だった私は、さる高名な建築家のオフィスを尋ねた折りに、たとえ他の企業オフィスには残業が無いとしても、設計事務所だけは日本のように残業や徹夜をしているはずだという確信に基づいて、このことを質問した。しかし、答えはやはりNOだった。不思議に思った私は更に質問を続けた。「それでは図面の納期が近づいた時はどうするのですか?」その答えは全く予期せぬ驚くべきものだった。「納期というものはありません。強いて言えば図面が完成したときが納期なのです」日本ならば、遅延した期間の金利問題などで間違いなく賠償問題になってしまう。同じ資本主義社会でありながら、日本とイタリアとではこうも実情が違うものなのだろうか。私は言葉を失った。
民主主義にしろ、資本主義にしろ、この西ヨーロッパで生まれた考え方と具体的システムが、日本人にとってどこかフィットしない、借り物のような感を未だなかなか払拭できないでいるのが実情だろう。それを国民の成熟度の低さと斬り捨てるのではなく、日本人の精神風土に合致した社会制度のあり方の再検討という見地から全体を見直してみる必要があると思われる。
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