■社会の一般界に成れない会社人間

 新入社員は、まず最初に組織人としての考え方や行動規範について教育を受ける。具体的な研修期間はどの会社でもせいぜい数ヶ月程度だろうが、実はこのわずかな期間の社員教育によって、大半の人間は社会人としての一生を通じてのモノの考え方が決定づけられてしまう。というよりも、自ら進んで自分の考え方を企業社会の常識の枠の中にはめ込んでしまうのである。そして概ね半年程度後には、自らの意志を封印した無機質な会社人間が、金太郎飴のように次から次へと輩出されることになる。

 もし、会社人間が地域の集まりや商店街の会合などにもし出席すれば、確実にある種のカルチャーショックを受けることになるだろう。会合の議題は決まっているにも関わらず、議題とは無関係な個人の自由な意見の応酬によって議論はなかなか収束しない。縦型社会に生き、既に企業流合理主義を身に付けて無機質になってしまった企業人には、有情の塊ともいえる、ヨコ社会の地域に生きる生活者との間に共通言語を見いだすことができない。企業の教育を受けた会社人間としては、地域住民には社会人という以前に、人間としての基本的な資質すらないのではないかと疑いたくなってしまう。

しかし、世の中全般をよくよく見渡してみると、社会の中で最大多数を占めているのは、組織人としての教育を受けた企業人ではなく、実はこうした地域に生きる人たちであることが分かる。会議の目的を踏まえたうえで、効率的な運営を図ることを無言のコンセンサスとして会議に臨む会社人間。企業の教育の成果としてこのような態度をとれる会社人間は、自らをメジャーな側に属していると信じているが、実は社会全体の中ではマイナーな存在でしかない。

極度に同質性が高い会社人間が何人集まったところで、そこにどんな新しい発想が期待できようか。会議に出席している顔触れを眺めれば、会議が始まる前から全員の発言は概ね想像がつく。個人の主体性を去勢されて斜眼帯を付けたような集団に新しい発想を求めることなど愚の骨頂であろう。しかし、これもまた会社が求めた"効率"の一つの成果なのである。

 社風は個人の人格にまで強い影響を及ぼす。「社会人として恥ずかしくない立ち居振る舞い」という一言で見事に自己抑制ができるようになった会社人間に自我はない。企業社会という、社会全体から見ればアブノーマルな環境に自ら進んで入り込み、自らが属する業界の範囲だけから世の中を眺め、そして生きることを求められてきた彼らは、自立した人間のための主体性に溢れる未来など決して手にすることはできない。



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