4.就職を控える企業人予備軍の学生たちへ
昨今、転職は珍しいことではなくなっているが、周辺の転職実行者たちを眺めてみると、会社は替わっても実は業界まで替えている人間は少ないことに気づく。何年も慣れ親しんだ業界を替えることにはかなりの勇気を必要とするようで、ほとんどの人間は会社は替わっても最初に就職した業界に一生留まる傾向が強い。そうであれば、自分の一生の仕事環境を決定することになる就職に際しては、個々の企業のブランドなどに惑わされている場合ではなく、どの業界に身を置くことが自分にとって適しているのかを真剣に検討しておくことが重要なことになる。
繊維産業は我が国初の基幹産業として昭和二十年代に入って大きく伸長した。そうした時代に学生時代を過ごした私の父は、当然のように繊維学科を選択し、隆盛を極める繊維業界の大手紡績会社に就職した。そして、そうした行動の選択は周辺の友人たちもみな同様だった。近年の学生の多くが商社や銀行、もしくはマスコミ業界を目指したように。
しかし、その中で一人、S青年だけは転勤が難しい家庭事情を理由に、大手の紡績会社ではなく地元名古屋の中小の紡績会社を選択した。繊維王国日本の名だたる企業に就職が決まった周りの友人たちは皆その選択を残念がり、考え直すように説得したが彼は首を縦に振らなかったという。
しかし、戦後まもなく、それまで我が国の産業社会をリードしてきた繊維産業は衰退化の道を歩むようになり、基幹産業の地位を鉄・造船などの"金へん"に譲ることになった。そして、大手の繊維会社に就職していた父を始めとする多くの友人たちは、各企業の繊維部門の縮小、閉鎖の流れの中で、まだ三十代から四十代の働き盛りであったにも関わらず、子会社、孫会社へと転出を繰り返しながら散り散りになっていった。そして父も、紆余曲折の果てに繊維業界に留まる道をあきらめ、大学への技術者の照会をきっかけに、科学捜査の必要性が認識され始めて鑑識課が創設されることになった愛知県警に転職した。
さて、件のS青年はといえば、彼が就職した名古屋の中小企業に過ぎなかった紡績会社は、製薬部門、商社部門と業容の拡大を続け、最終的に我が国有数の企業グループにまで成長していった。そして、彼はその企業グループ全体の代表専務にまで昇進した。
マス経済社会体制の収縮期にも関わらず、多くの学生は相変わらず現時点で隆盛を極めている業界や、名前の通った華やかそうな大手企業を目指す傾向が強い。しかし、企業三十年説を前提に考えると、一流企業として名が通るまでに費やした時間を差し引けば、今後、その業界なり、企業が順調に推移できる期間はせいぜい二十年程度しか残されていないことになる。そうすると、二十二歳で就職したとすると、働き盛りの三十代後半から四十代になる頃には、その業界や企業は斜陽期に入ることになる。私が大学四年の頃、大手銀行の就職説明会の日には学内から男子学生の姿は消えていたものだ。その銀行業界の二十五年後の現在の姿はどうか。
ただ単に変化のための変化を繰り返すダッチロール型変化社会の中で、あらゆる業界、企業は栄枯盛衰の必然の流れの中を漂っている。たまたま席を置くことになった業界、企業が将来隆盛を極めるか、低め安定のままか、はたまた衰退していくかは、突き放して言えば運でしかない。但し、特異な例を除けば、現時点で隆盛を極めている業界や企業の二十年後の衰退だけは可能性が高い。
「好きこそものの上手なれ」という言葉があるように、自分が納得できる、興味を持ち続けることができる自信がある領域で業務に励めば、属人的体質の強い技術やノウハウも身につきやすい。現時点での社会の評価や企業規模などに惑わされることなく、社会の中で生きていくための拠って立つ基盤を何に求めるかを、就職という人生の一大イベントをきっかけに自分自身の精神性の中から探り出していかなければならない。
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