2.実感の時代へのシフト期の中で


■男性論理社会の終焉

 男性論理の欠陥は、一言でいえば人間や生活を評価する視点の欠落にある。自分自身の実感に判断基準を求めることができない男性は、人間としての規範を自らの中に確立できず、いきおい制度や組織といった社会的なフレームに頼ろうとする。女性は実感が伴わないと主体的な行動を取りにくいが、男性は机上のプランを実感を伴わずして実行に移すことができる。その時に置き去りにされるのが人間としての自らの規範や生活への貢献という視点である。

 男性中心の組織は組織が大きくなっていくほどその業務への取り組み姿勢から人間的な部分は希薄になり、没個性化していく。地方自治体という組織を例に取ってみよう。地方の町村役場の場合、職員は家が農家で兼業であることが多く、農繁期には刈り入れの手伝いのため役場は殆ど休業状態になってしまう。だがそのおかげで、役場の人間に戻って地域活性に取り組む時の彼らの発想は、地域生活とブレることのない驚くほど素直なものになる。

 しかし、それが市役所(それも人口規模によって異なる)から都道府県疔、更には国家官僚と、組織が大きくなるにつれ、その取り組み姿勢から生活への対応という視点は急速に薄れていく。そして、そこに残るものは、施策対象者の顔の見えない、経験則に基づくだけの機能的効率論でしかない。

 自らの人間としての規範を仕事の原点に置けない男性は、人間不在の経済システムの中で非常に効率的に産業社会を拡大させてきた。高度経済成長期の男性は身も心も生活との乖離の極地にあったことだろう。しかし、生活を見ることができない男性と人間を評価できない経済社会は、次なる産業目標を発見することができず、バブル期のマネーゲームの終焉とともに失速してしまった。男性論理と人間不在の経済原理が手を携えながら描き出した無機質な経済上位社会の終焉である。


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