■芦屋のまちを例に見る地域の必然
そして、その華やかなイメージを振り撒く神戸のまちの隣りに芦屋というまちがある。このまちには自然の景観と人間の創りだした景観の適切な調和があり、美と豊かさと幸せの風景がある。一方で、高額所得者が多く住むことでも有名なこのまちは、神戸のハイカライメージとも相まって、お洒落できらびやかでスノッブ意識が鼻につくお金持ちのまちというイメージで外部の人間には受け止められている。しかし、一般的に受け取められているそのようなイメージとは対照的に、このまちの生活実態は実は極めて質素なところにある。
物事は本質に迫れば"らしく"なるが、"らしさ"を追えば臭くしかならない。外部の人間が芦屋のまちに描く派手できらびやかなイメージに照準を合わせて、商品やサービスの質よりも高級感という雰囲気を重視して店舗を進出させる事業者は、一〜二年以内にことごとく撤退しなければならないはめになってしまう。そして彼らは口をそろえて「芦屋のまちでの商売は難しい」と言う。
この芦屋のまちが持つ一般的に受け止められているゴージャスなイメージと、極めて質素な生活実態との極度なギャップは一体何処から生じているのだろう。地理的に連続するお洒落な神戸とは圧倒的に異なる生活規範をこのまちが持つに至った背景は、実はこのまちの生成の歴史に求めることができる。
元々、南斜面で温暖な瀬戸内気候の芦屋の丘陵地帯には、大阪の上町台地に住む船場の旦那衆の別荘が多く建てられていた。そして大阪の都市化に伴う居住環境の悪化によって、昭和の初め頃から多くの旦那衆が別荘地であった芦屋に本宅を移しだした。つまり、芦屋は大阪の船場の旦那衆の移住によって発展したまちなのである。この芦屋のまちでの上町台地的生活を、文豪谷崎潤一郎はその小説『細雪』の中で詳細に綴っている。したがって、芦屋に住む人々の生活規範は当然のごとく大阪人のそれであった。
大阪人の人生観は決して附和雷同することがない高い堅実性の中にある。また、船場の旦那衆としての高い文化的素養と本物を見抜く審美眼が備わっているため、金銭面に関しても見てくれに惑わされるようなことはなく、費用対効果の意識が極度に高い。このような船場商人固有の気質がそのまま芦屋のまちの気質になっているのである。船場の旦那衆の本物を見分ける高い文化的素養と、"えげつない"とも評されることがある大阪人独特の金銭感覚。前述の神戸っ子とは異なり、彼らには"らしさ"に惑わされて付和雷同するような部分は全くといってよいほど見受けることはできない。
地理的に見ると芦屋は神戸の東隣りに位置している。そして、その東に西宮市、尼崎市と続き、大阪に至っている。外部から眺めると芦屋は神戸と同種の属性のまちのように捉えられる向きが強いが、その生活気質から見ると、芦屋は実は神戸の隣りのまちではなく大阪の隣りのまちなのである。
勿論、人口八万五千人の芦屋のまちがこの上町台地からの移住者が身につけていた一つの属性だけで構成されているわけではない。当然のことながらほかにも幾つもの異なる属性の居住者が存在している。しかし、どのような経緯でまちが形成されていったか。そしてその先住住民はどのような属性を備えた人々だったのか。また、その先住住民が備えている文化の完成度が高ければ高いほど、その後に流入してくる、本来は属性が異なる他の住民の気質にも大きな影響を与える。それは、たとえ住民の転出入でその多くが入れ替わったとしても、その気質が地域から消滅していくことはない。何故ならば、人間は環境の動物であり、流入してきた新住民もおしなべて地域の影響を受けるようになるからである。
地域は、このように誕生の時期や成長の経緯によって独特の性格を有するようになる。そして、そうした地域の固有性の中で地域住民の気質は必然性を伴って培われていく。したがって、この地域の固有性と、その上で醸成されていく自分たちの生活文化のありようを理解し、過去から現在を経て未来に続く必然の流れの方向に沿って更なる活性策を企図することが、地域生活の質の向上にとって重要なことなのである。
地域の固有性に着目し、地域に必然性の高い生活文化の更なる醸成に努力することによって、結果として画一的なまちづくりとは異なる、アイデンティティに溢れる魅力ある地域の創出は可能になっていく。
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