第2節.生活への回帰の奨め


1.家庭と社会との関係


■我が国の家庭の崩壊の流れ


経済体制が未成熟な段階においては、生活は本来の社会の中心的な場所に位置し、経済活動は他の多くの生活を支える要素と同列の位置づけにある。しかし、戦後の経済体制は、高度成長の道を歩むようになると共に、生活と経済活動の本来の関係を徐々に変化させていった。

経済の成長は都市への企業の集積を促し、地方の多くの労働人口を都市に吸引した。そして、働き場を求めて都市に集まった地方の若年層はそのまま結婚して都市部周辺で核家族を形成した。経済に誘導される社会は核家族化を大きく促進し、序章で述べたように、夫を企業戦士に変え、美化された企業内労働に魅せられた主婦をも企業社会に誘っていった。経済に侵食された家庭は、今や夜だけ出来合いの家族が寄り集まる仮の宿でしかなくなってしまっている。家族全員が寄り添って微笑みあっている姿は、今では住宅メーカーのテレビのコマーシャルにしか見ることはできない。

 京都人は働かないという話を時折耳にすることがある。「京都人は口ばかりで手が動かない」「京都人は仕事に真面目ではない。例えば、仕事の約束をしても、雨が降ると何がしかの理由を付けて結局は来ない」と言われたりする。しかし、バブル経済の後期に金融機関に身をすり寄せ、町家をビル化して「京都よお前もか」と日本中を嘆かせた京都人ではあるが、仕事をあらゆるものの上位に位置づけないこの体質には、歴史に裏付けられた京都人の知恵を感じさせるものがある。生活を上位に位置づけて仕事との地位の逆転を許さない京都のまちでは、生活と地域と地域産業は今も一定の健全さを残している。

 経済上位社会は、生活のためのインフラ整備の充実など、一定段階までは人間と協調関係にあった。しかし、後期資本主義社会の段階を迎えるにつれ、その体制も徐々に自己目的化の体質を強めながら肥大していき、最終的には限りない再投資の世界に構成員を駆り立てていくようになった。マス経済社会は、情報化の進展によって地球を一つのチャネルで結ぶ、更に熾烈な市場経済の世界に参入していこうとしている。経済企画庁も平成十一年度の経済白書の中で、経済成長のために家計の資金をリスクマネーとして投じろと、わざわざ「risk」という単語は「risicare(勇気を持って試みる)」という意味だという注釈をつけながら、市場経済への家計の参加を説いている。

しかし、市場経済は貨幣価値の増殖を最大の目標としており、そこでは一層"人"への評価は軽視されるようになる。人間不在の経済上位社会は、社会のあらゆる領域をその枠組みの中に飲み込み、一元体制を更に強固なものにしている。その中で家庭の崩壊は進み、家族であることの意味さえも希薄なものになろうとしている。


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