2.生活の変化
■"生活"の地位の相対的低下
東京を頂点とする我が国の急激な経済一元化社会の拡大と深化は、家庭にも様々な形で深刻な影響を及ぼした。もともと、ヒューマニティに依拠しない資本主義は人間不在のシステムであって、そのような体制を基盤とする社会の過度の進展は、必然的に人間とその生活にある種の歪みをもたらすようになる。
まず第一に、家庭の収入源確保のために経済社会と家庭との間に立つ、夫である男性の変化が挙げられる。経済社会の効率化の動きが過度に先鋭化するまでは、サラリーマンであっても生活には一定の時間的、精神的ゆとりがあった。私が子供のころ、隣近所の勤め人の主人は、平日でも夕方には既に帰宅して庭に水を撒いていた。夫は企業人であるとともに家庭人でもあり、家庭の大黒柱として良き父親であることができた。昭和四十年代のテレビのホームドラマに登場する家庭の良き父親の職業は、まず例外なく山村聰に代表される一流企業の部長職などのサラリーマンだった。
しかし、経済社会の先鋭化とともにその良き家庭の父親も徐々に企業戦士と化すようになり、企業にその軸足が移るとともに、家庭は母親と子供だけの生活の場となっていった。そして、経済社会が先鋭化していくこの過程で世の中に企てられたことの一つに、労働者の就業意欲と勤勉性を高めるための仕事に対する過度の賛美があった。本来、仕事とはどんなに美化して見せても、結局は金銭を得るための方法でしかないという言い方ができる。どんなに崇高な行為も、最後にその対価として金銭が支払われれば、それは所詮金のためでしかなかったことになってしまう。いずれにせよ、労働を崇め神聖化することによって、過度の就業意欲と勤勉性は見事に日本人の中に植え付けられていった。
この過度の就業意欲は今や現役勤労者だけにとどまらない。我が国では六十歳で定年を迎えてもまだまだ現役で働きたいという人は多く、六十歳以上の就業者比率は、アメリカの二三.五%、ドイツの六.八%に比べて、我が国では四三.六%と非常に高い。(総務庁:『高齢者の生活と意識に関する国際比較調査(平成七年)』より)これには、厚生年金の給付開始時期が六五歳からという、五年間のギャップの経済的な問題もあるにはあるが、他国から非難されるワーカー・ホリック(仕事中毒症)は老いてなお健在といったところか。
そして、この仕事に対する価値観の変化が影響を与えたのは、男性である夫だけではなかった。次に家庭の主婦である女性にも影響を及ぼしていった。仕事に対する評価が高まるにつれ、妻の家事労働に対する評価が低下していったのである。
社会組織の最小単位として社会の一番の核となる家庭組織を維持し、次世代の子供を育てる家事労働は、本来、金を得るために行う労働と比較できるようなものではない。しかし、経済偏重化社会における過度の企業内労働賛美の風潮は、多くの主婦の心の中に「夫は華やいだ社会で脚光を浴びながら仕事をしているのに、私は家の中に閉じ込もって誰からも評価されない家事労働を繰り返しているだけ」という思いを抱かせるようになった。
かくして、夫に次いで妻も家庭を離れて企業社会に軸足を移すようになり、家庭には老人と子供だけが残された。ちなみに昭和五十年代になると、テレビのホームドラマに登場する良き父親の職業は、家庭から遠のいて存在が見えにくくなってしまったサラリーマンから、藤岡琢也に代表される飲食店経営などの自営業に移っていった。
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