■男たちへの生活への回帰の奨め

 男性と女性が家庭を必要とする時期にはズレがある。新婚時代に始まって子供の育児や教育に追われる十五年位の間は、新米主婦として女性は男性に家庭生活での協働を切実に求める。しかし、その時代は男性にとっても新米社会人として企業社会に足場を築くことが出来るかどうかの重要な時期であり、妻には悪いと思いながらも家庭にかまけて仕事をないがしろにするわけにはいかないと考えている。

 そして、結婚生活も十五年ほど過ぎ、子供にも手がかからなくなるようになると、主婦は女性同士のネットワークを足掛りに様々な地域活動に参加するようになっていく。「亭主は元気で留守が良い」時代を迎えるのである。しかし、外で元気にしているはずの男性は、この時期になると企業社会の中で疲労感を募らせたり、疎外される状況に置かれたりしだす。そしてその癒しを家庭に求めようと考え出す。しかし、その時には主婦は既に家庭に留まってはいない。実感の時代に自信を深めつつある主婦は、目まぐるしいばかりに地域社会の中を活動的に生きるようになっている。

女性はまず家庭生活に、次いで地域社会に自らの活動の場を求める。男性は逆に、まず企業社会に始まり、次いで家庭に癒しの場を求めようとする。しかしその頃には、夫だけを頼りにどんなに夜中でも起きて待っていてくれた妻は、もうそこにはいない。かくして、行き場を失った淋しい男たちの癒しの場は赤ちょうちんでしかなくなってしまう。

 形式的、論理的、理想主義的な男性は企業社会の中にアイデンティティを求めたがるが、企業社会における個人と組織との関係は常に相対でしかない。生活を切り捨てて仕事だけにのめり込むのが、資本主義流に言うとビジネス社会を生きる男性にとっての"効率"だった。しかし、実は産業が目指すところは生活にある。産業の目標である生活者の地位から降りて、生活に奉仕する産業に滅私奉公する。このような逆説の中に、いかにして夫であり企業人である男性に豊かで充実した人生を見通すことが出来るのか。産業活性の前提が生活者理解にあるのなら、企業人である夫も生活者としての自覚を取り戻せば、自らの業務の活性策はおのずと見えてくるはずだ。

 時間の豊かさが人間に満足を与える時代になっている。季節の移ろいを肌で感じて身繕いをするように、ものごとを五感で味わい、それに対応するのが生活というものだ。それは人間としての豊かな感性を育み、同時に企業社会での左脳中心の頭の働きを癒す効果も持つ。生活を豊かにする営みの中から文化は生まれ、そしてそれは新しい産業ニーズを導き、最終的に経済的発展へと帰結してゆく。

 政府は年間の総労働時間の千八百時間達成を掲げて、週休二日制の徹底をはじめとする労働時間の短縮を働き掛けている。一日の労働時間を減らせば生活にゆとりが生まれ、余暇生活が多様化し、地域コミュニティは活発になるだろうという考え方である。しかし、本当にそうだろうか。制度の導入によって強制的に労働時間を短縮するだけで生活は多様化するのだろうか。それにはまず生活を評価できる価値観の育成が図られなければならない。

経済社会と地域社会の変化の中で、今後、男性はいかにして自らのアイデンティティを発揮できる場所を見つけていくのか。男性がアイデンティティを捧げてきた企業社会は相対的な存在でしかなかった。企業社会の中に位置づけを確保しようとして、結果的に経済社会の変化の必然に翻弄され続けてきた男性が帰り着く先は地域にしかない。経済社会と地域社会の隙間を彷徨う時代の迷子になってはいけない。今後、顕在化するであろうマクロ経済と地域の共生の時代を、企業と地域の二つの帽子(Two Hats)を使い分けながら、軽やかなフットワークで良き企業人であり、生活者として生きていかなければならない。


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